【Vol.177】治めて産業になる

  汚染土壌の浄化に関係して、環境問題について考えることがあります。
 どうも、環境汚染や環境悪化というと、とにかく人間が犯した悪いことだということになっています。でも、それは人間だけが悪いのでしょうか。太古の昔から棲んでいる植物や動物は、環境を汚さなかったのでしょうか。
 或いは、自然は環境を悪化させなかったのでしょうか。要は、宇宙や地球という自然に対して、人類だけが環境を悪化させたという問題なのか、逆に、自然は環境にずっと優しかったのでしょうか。もっと言えば、環境問題は全て悪いことばかりなのか、という素朴な疑問もあるのです。

 環境悪化は我が国だけではなく、世界的な問題ですが、とにかく悪いイメージが先行しているようです。それは、人間がここまで増えなければ、自然は豊かなままで何も問題は無かったという、人類が諸悪の根源だというものです。このままでは自然は破壊され、動植物も人類も、地上の生物は全て絶滅するという意見もあるくらいです。
 確かに、汚すことの多くは人間由来が多いのは認めます。しかし最近、天然由来の土壌汚染(自然に出てくる土壌汚染)が問題になっていますし、火山の噴火や大地震、大津波や台風、河川の氾濫など、自然がもたらす災害は環境を悪化していないのでしょうか。それに、動物だって昆虫だって、植物やミジンコだって増えすぎると困りますが、それも人間が悪いのでしょうか。

 言いたいのは、環境汚染や悪化と言うから悪いのであって、それを「変化」と言えばどうなるのか、ということなのです。山崩れを環境悪化という人が少ないのは、山体が変化した結果と受け止めているからで、災害に遭えば復旧するのは当り前の話です。
 要するに治せばいいのです。昔から、治山・治水という言葉があるように、自然環境の変化を治めることは、国や自治体に課せられた仕事でした。変化した後、不具合があれば治すことが必要ですし、その為に多くの人間が働きました。それは、すなわち産業だということです。治す、という言葉を並べると分かります。治山、治水、治安、治療、湯治、主治医など、治すことは良いことですし、それは付加価値のある行為なのです。

 汚染土壌の話に戻します。利用しようとする土壌が汚染されていると分かった途端、その土地は限りなく価値を失い、人々は近づかなくなります。昨日までは平穏無事だったのに、子供たちは遊ば(させてもらえ)ないし、その日から、そこにあったものは全て、汚染されたというレッテルを貼られます。それまで、普通に使っていた土地が、その日から価値の無い土地になる。地権者は勿論、その土地を利用したい者にとって、計り知れないダメージになる…。そのように諦めてしまって、本当にいいのでしょうか。

 繰り返しますが、汚染したなら治せばよいのではないでしょうか。産業廃棄物だって、有害物質だって、悪いものではないように、治せばよいのです。治すという言葉に、あえて治産を入れなかったのは、本来の治産の意味が、生計を立てることや財産の管理を指すのに対して、これからは産業振興の意味に使いたいと思ったからです。

 環境問題に取り組む時、かつて、我が国の戦後復興に大きな経済効果をもたらした、治山・治水事業という、産業振興施策と同じような視点で臨みましょう。そして、治すことで産業振興を図る事業を、治産事業と呼びましょう。
 そうすると日本は、治す対象が無尽蔵に産出する、治産事業大国になるのです。